Neue wilde Künstler*innen / New Wild Artists(ノイエ・ヴィルデのアーティストたち)

Moon Woman, 1984, acrylic on canvas, 200 x 100 cm & 250 x 110 cm © Leiko Ikemura and VG Bild-Kunst Bonn, 2021. Courtesy of Galerie Karsten Greve.

「あらゆるものに対してプロパガンダを」

1970年代の終わりから1980年代の初めにかけてドイツのアートシーンに新たな現象が見られるようになりました。大型キャンバスが用いられた作品で形象的な表現と激しい色彩表現を持つものでした。制作者の大多数を占めていたのは若き画家たちであり、彼らが発表する「豊かなモチーフ世界、そして直接的なおかしみと楽しさに満ちた挑発」は、ミニマルアートやコンセプトアートといった当時主流であった芸術運動に対して大きなコントラストをなしていました。ドイツの芸術史家であり美術館職員であったヴォルフガング・ベッカーは、ルードヴィヒコレクションをもとにして1980年にアーヘンで開かれた展覧会「Les Nouveaux Fauves – Die neuen Wilden」に際して、彼ら国際色豊かな画家たちを初めて「Neue Wilde(ノイエ・ヴィルデ、新野獣派)」とひとまとめに呼びました。この名は歴史的に有名な美術グループである野獣派(Fauves)にならってつけられたものです。アンリ・マティスやアンドレ・ドランを中心とした野獣派の絵画は1900年過ぎのパリで世間を騒がせました。展覧会を開催する側のベッカーから見た美術史的コンテクストとしては、ドイツとフランスを出自とする表現主義が拡大されたものと見られていました。

ノイエ・ヴィルデはゆるく結びついた様式的な運動でしたが、初期のころから地域的に分散していた点と多くの画家が関与していた点が重要な特徴として挙げられます。ベッカーはアーヘンでの出展作家についてヨーロッパ(フランス、ドイツ)とアメリカの出身であると紹介していましたが、ドイツだけでも複数の活動拠点があり、ベルリン(ライナー・フェッティング、ヘルムート・ミッデンドルフ、サロメ、ベルント・ツィマー)、ドレスデン(A. R. ペンク)、デュッセルドルフ(アルバート・エーレン、マルティン・キッペンベルガー)、ケルン(ヴァルター・ダーン、ジリ・ゲオルク・ドコピル、イケムラレイコ)他が挙げられます。オーストリアやスイス(マルティン・ディスラー)にもノイエ・ヴィルデの新しいスタイルをとる画家がいました。美術史家ベンヤミン・ドーデンホフは「どのアーティストが『ノイエ・ヴィルデ』に属するのかということは、しいて言えば漠然としており異論も多い。アーティスト自身も他の者とひとつのグループに関連づけられているとは考えておらず、一般の目からは芸術運動の一種であると見られている。」と述べています。もしかすると「大仰さへと流れていきやすい表現主義」であるとするのがいちばん手っ取り早いのかもしれません。作家どうしの関連付けがあろうとなかろうと、同質的だろうと異質的だろうと、ノイエ・ヴィルデの作家たちが1980年代初頭の絵画に新たな領域を広げ、予測もできなかった激しい提案を差し出したのは間違いありません。初期のうちにアーヘンで行われた展覧会が公的な美術館によるものだったこととマスメディアの後押しもあり、ノイエ・ヴィルデはその地歩を固めていきました。

ジャン=クリストフ・アマンは1978年にルツェルン美術館からクンストハレ・バーゼルへと移りました。ルツェルンで展覧会マネージャーとして有名になったアマンは、地域的・国内的・国際的といった傾向のプログラムを成功のうちに開催し、それらを組み合わせて見せることもありました。彼が展示の中で第一に求めていたのは芸術的な品質であり、その彼の思いについてはアネマリー・モンタイルが「とりわけ創作が持っているであろう『エネルギー』の総体」であったと述べています。アマンはすばらしく改築されたクンストハレ・バーゼルの建築に励みを得て、ルツェルンで成功を収めていた企画を、バーゼルにおける各種条件に適応させたかたちで即座に続行しはじめました。彼は新しくやってきたキュレーターとして、現地やスイスの他地域、外国で起こっていることを間近に見ることとなりました。

「ドイツの過激派が早いうちに」バーゼルで知られていたというのはさほど驚くことでもありませんでした。アマンはこの過激派のアーティスト12人を1982年の展覧会で集結させましたが、新チューリヒ新聞はこの展覧会をまったく感心しないものとして取り上げました。「アーティストたちをまとめあげるのはあるアーティストを他のアーティストたちから分けるよりも奇妙であるように映るだろう。画家たちが何を描くのか、そしてどのようにして描くのか。そのなかに12人のドイツ人画家たちが共謀者のように立ち現れる。社会のアウトサイダーとして、芸術家社会や芸術史におけるフリークスとして、彼らはアンダーグラウンドに、我々文明社会のサブカルチャーのなかに根を下ろした。そこで彼らは自らの異者性を狼のごとき露骨さで吠え立てている。頭からではない、腹から、そして下腹部から。」この記者はアマンが招き寄せた画家たちへの自らの理解力のなさをぶちまけただけのようです。この展覧会で新しい絵画はその力を遺憾なく発揮し、観客を惹きつけました。一ヶ月と少しのあいだに約7000人もの来訪者を動員したのです。クンストハレの天窓採光のホールではチーム・ケルンとも言える「ミュルハイマー・フライハイト(ドコピル、ダーン、ペーター・ベンメルス)」が同名のタイトルで堂々たる絵画展示を行いました。この後アマンはこの形象的(かつ野性的)なドイツ絵画を、ゲオルク・バゼリッツ(1985年)、ヴァルター・ダーン(1986年)、ライナー・フェッティング(1987年)らの個展と1986年のグループ展でのアンゼルム・キーファーの作品展示においてさらに追求していくことになります。

アマンは常にバーゼルでのローカルなアートシーンに留意・助力し、ノイエ・ヴィルデの方向性を独自に解釈する画家たちを見つけ出していきました。そのうちの何人かは彼の支援によってクンストハレ・バーゼルで展覧会を開き、アーティストとしての躍進を果たしました。バーゼル出身のニクラウス・ハーゼンベーラーがその例として挙げられます。バーゼルの画家ヴェルナー・フォン・ムッツェンベッヒャーは1985年に行われたハーゼンベーラーの展示について下記のように記しています。「大胆にもニッギは大きさのそろった絵を長い壁に一列に並べた。ホールの他の部分は空っぽだなんて、とんでもなく大それている! でもそうすることで『パーテルノステル』、つまり屠畜場のベルトコンベアをシンボル化して表したのだ。この個展のテーマはまさしく、屠畜されて死んだ動物だった。」濃密さ、盛るように塗られた絵の具、重量感。もしかするとその形象はさほど気ままに描かれたものでは全くなかったのかもしれませんが、ハーゼンベーラーの作品を1980年代初頭のバーゼルにおいて重要なノイエ・ヴィルデの文脈に置くことを可能にしたのでした。

バーゼルのアートシーンを豊かにしたものに1980年代に開館した現代美術館があります。現代美術のみに特化した公的な美術館というのは当時ヨーロッパで初めてでした。この美術館では現代美術の展示だけでなく買い取りも行われ、現在も続けられています。日本生まれのイケムラレイコは当時ケルンに在住し活動しており、ケルンにおけるノイエ・ヴィルデの一員に数えられていました。彼女は1987年にここバーゼルで個展を行い、11点の絵画と169点ものドローイングを展示しましたが、このうちの多くは1980年代初頭にバーゼル美術館に買い取りされていたものや作家自身が版画素描館へ寄贈したものでした。このときのイケムラ作品との綿密な取り組みは当時の版画素描館館長であったディーター・ケップリンの功績です。

このように本展「ノイエ・ヴィルデのアーティストたち」は過去のバーゼルにおける美術史への旅、そしてノイエ・ヴィルデの足跡を追う旅ということもできるでしょう。前駆者である19世紀末から20世紀初頭の表現主義へとさかのぼり、絵画のひとつの潮流を作り上げたノイエ・ヴィルデ。その時代感覚は今もなお古びてはいません。

出展作家:Walter Dahn, Jiri Dokoupil, Niklaus Hasenböhler, Karl Horst Hödicke, イケムラレイコ, Markus Lüpertz.

出典:ギャラリー・ミュラー & 展覧会パンフレット

 

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