イケムラレイコ 新しい海へ

Standing with Miko in Yellow, 1995/96, oil on canvas, 83,2 x 62,5 cm © Leiko Ikemura and VG Bild-Kunst Bonn, 2019. / Photo: Lothar Schnepf.

【Nach neuen Meeren スペシャル・イベント】

アーティスト・トーク 拡大版
2019年6月22日、午後4時〜5時30分

イケムラレイコによる特別パフォーマンス
2019年8月21日、午後6時30分

バーゼル美術館にて

 

 

イケムラレイコは強い表現力をたたえ戦闘的とも言えるその作風で、ノイエ・ヴィルデの作家として1980年代初頭のスイスで世間の注目を集めました。 世界のはざまにただよう少女や宇宙的な風景のなかにメルヘン的な非実在の生物を描き、 現在国際的に有名な作家となっています。一貫して西洋のアートシーンで活躍するとともに、年を追うごとに故郷の文化に意識的に目を向けるようになった彼女の作品には、双方が独自のかたちで融合しており、日本でも賞賛を浴びています。

展覧会「Nach neuen Meeren(新しい海へ)」はドローイング、絵画、彫刻作品を中心とした密度の濃い回顧展であり、作家自身と国立新美術館(東京)による協力のもと成り立っています。

イケムラレイコは大阪とスペインの大学で文学を学び、1973年からセビリア美術大学で絵画を学びました。その後チューリヒで数年間を過ごした後、1980年代にドイツへ移住しました。1987年にはバーゼル現代美術館の当時の銅版画展示室長であったディーター・ケップリンのもと、初の大規模な個展を開催しました。

1989年グラウビュンデンでの滞在を契機に、イケムラは身体と風景が溶け合うような新しい画風を生み出し、シリーズ作品「Alpenindianer(アルプス高原のインディアン)」につながっていきました。続いて、太古の昔を思わせるような複合的な姿の生物を彫刻作品で表現することが多くなりました。1990年代にはこれらに代わって女性像が登場してきます。彼女らは重力が存在しないかのように、地と空にはさまれた地平線、そして過去と未来のあわいにただよい、同時に傷つきやすく繊細で手の届かない存在として描かれました。現在、イケムラレイコは近年の作品で、夢想的な精神風景のなかで人間と自然が溶け合うメランコリックな憧憬を象徴的に描き出しています。 変遷と変容を続けてきた彼女の作風は初期の作品へ還っていくかのようです。

異国人であること、孤独、そして新しい言語を身につけること、これらに真摯に取り組むことを通じて、イケムラは自らの自由な空間を獲得し、日本文化とヨーロッパ文化の真の融合を見いだしました。初期作品のころの「戦いの女神」は今では強さと冷静さを見せる女神アマゾンとなって君臨しています。

キュレーター: アニータ・ハルデマン博士

 

Kunstmuseum Basel, Neubau
(バーゼル美術館・新館)

St. Alban-Graben 16
CH-4051 Basel

Tel. +41 61 206 62 62
Fax +41 61 206 62 52

出典: kunstmuseumbasel.ch/de/ausstellungen/2019/leiko-ikemura

 

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「Nach neuen Meeren」展は開催以来、現地新聞・雑誌にて数々の評論が発表されています。そのうちの3点を日本語訳にて掲載いたします。

 

「Bei dieser Künstlerin wird der Körper der Frau zu einem Tempel(彼女の手によって女体は寺院になる)」
〜イケムラレイコの芸術制作のもととなるのは西洋・日本の文化からのインスピレーション

文:アンゲリカ・アッフェントランガー=キルヒラート

ヨーロッパ文化では一般的に白は善、黒は悪を意味する。ならば、白い部分に暗い影が落ち、黒い部分に光が輝いていたら? そうすると思考と視覚は極と軸へ解体しはじめ、区別されていると思い込んでいた事柄に結びつきを発見することになるだろう。

この例のように先入観やステレオタイプなしにものを知覚するには、現実に対する特別な見方が必要になる。それはある文化の外側から、または文化と文化のあいだからものを見るということだ。1951年に日本に生まれ、長年ヨーロッパに在住するイケムラレイコは、視野の広いきめ細やかなものの見方をもたらしてくれる。彼女は白と黒のあいだに段階があり、そこに広がる部分が美しいのだということを知っている。

谷崎潤一郎がかの有名な随筆「陰影礼賛」で詳説したように、日本人が考える美はヨーロッパのそれとは異なる。例えばアジア人はうす暗い部屋のほうが住みやすいと感じ、銀ならば古色蒼然としたほうに価値を見出し、色白の肌にエロティシズムを感じる。かつて女たちが外界から切り離された光の入らない部屋のなかで過ごし、一種の闇の生物であった様子を、谷崎は書き表している。女性たちは今でもできるかぎり直射日光を避け、顔や腕を日に焼けさせることはしない。日本女性が可能なかぎり日光を避けようとすることが高じて、日傘はチャーミングなおしゃれ用品となった。

対極的・対戦的な局面の増す昨今、イケムラレイコのような見方を持つのは歓迎すべきことだ。芸術家の彼女はふたつの文化から刺激やインスピレーションを得て創作を続けてきた。しかし彼女のまなざしは屈託のないものではない。そのなかには過ぎ去っていった苦悩や第二次世界大戦の恐怖といった悲しみの感情が揺れている。そして福島の原子力災害への懸念やヨーロッパで緊張や脅威が増しつつあることへの不安が同居している。彼女は時としてなじみのある意味を置き換え、旧知の意味のつながりを解体する。これらは暗号化された謎解きの絵となるのだ。

メメント・モリ 

イケムラレイコの作品に登場するのはほとんどが女性である。バーゼル美術館で開催中の回顧展の冒頭に展示されている彼女の作品「受胎告知」に登場する天使は、美しい金髪の少年ではなく黒髪の女性である。その胸はとがっており、頭を下に向けて画面のなかへとぶらさがっている。展覧会の終わりに待ち受けているのはある強烈な印象の彫刻である。その姿は小さく、床に横たわる少女なのだが、身体の半分は貝、もう半分が人間だ。巨大な青い目で私たちには見えない何かをにらみつけている。タイトル「メメント・モリ」は言語化されないものを暗示している。イケムラが考える死は、暗いものや年老いたガイコツ男のイメージではない。彼女がおぼろげに思う死というものは白く若い少女の姿なのだ。

受胎告知とメメント・モリのあいだには多くのドローイングや絵画、彫刻が並ぶ。女性を描いたものの他に動物に似た想像上の生き物を描いたものがあり、オディロン・ロドンの創作世界を思わせる。息をそっとふきかけたような水彩画であろうが、カンバスに塗り込むように描かれた油彩画であろうが、これらの絵画に描かれた妖精めいた生き物たちは、まるで空気中へと蒸発していき、身体を失って純粋なイメージになろうとしているように見える。確たる支えもなく、周囲には何もなく、ただ色の塗られた空白の背景か、クリーム色の土台が見えるだけだ。

人間から動物へ、子供から女性へ、女性から物体へと、ある存在が別の存在へと流れるように変化していく。驚くべきは、イケムラが形作り釉薬をかけて焼いたテラコッタの塑像にもこの変容が見られることだ。これらの塑像は内部に何か見知らぬものを隠している神的な箱のようだ。女性と家が一体化し、女性の身体は寺院となる。 

聖母と仏陀

他の全ての作品から際立った像がある。それは丸みを帯びた塑像であり、美術館の中庭に立っている。うさぎ観音という名のそれは人間を超えた大きさで異教の女神のようにそこに君臨している。頭からは細長いうさぎの耳、感覚器官であるやわらかな耳が生えている。胸の前でゆったりと腕を組み、視線は内部へと向けられている。その姿はストイックで近づきがたい。しかし体部は門のように開いている。スカートの中は星のように並べられた穴が開いており、観る者をその暗い内部へと招き、かくまってくれる。

守護のマントを着た聖母と菩薩像―キリスト教と仏教それぞれの救世主の姿であり、単純なのに深い印象を残す原像である。これらを念頭に置くと、堂々たるブロンズ像のうさぎ観音は文化と宗教が驚くほど近くにあることを象徴的に示し、物事の区別よりも結びつきに目を向けさせてくれているように思える。観る者はそこへまなざしを向けるべきだろう。

バーゼル美術館にて、9月1日まで開催

掲載:「NZZ」紙、2019年7月24日

https://kunstmuseumbasel.ch/storage/nzz-ikemura_af7bd375.pdf

 

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「Kosmische Umarmung(宇宙的な抱擁)」

ベルリン在住の日本人アーティスト・イケムラレイコは、自身の作品の中に東洋と西洋、双方の伝統を結びつけている。バーゼル美術館での展覧会の印象を伝える。

レポート:クリストフ・ハイム(Christoph Heim)

現代の聖母像のように思えるそれは、イケムラレイコによる青さびのついた青銅製の巨大な彫刻である。バーゼル美術館・新館にある光の中庭に設置されている。約700キログラム、「うさぎ観音」と名付けられたその作品は、うさぎの耳を持った少女が泣きながら祈るように手を合わせている。胴体部分の下は鐘のような形のスカートになっていて、無数の穴に覆われ、前面にはドアのような開口部がある。

この少女なる母、もしくは母なる少女は、2012年から2019年にかけて制作された。それまでのイケムラレイコの作品に比べるといくぶん写実的であるように見える。この彫刻作品にはヨーロッパとアジアの伝統が結実している。守護を約束するこの哀しみの獣人像は、とりわけ仏教のなかで描かれる菩薩像を思い出させることだろう。

始まりはシュルレアリスティックだった

イケムラレイコがノイエ・ヴィルデのスタイルをとった、固く、攻撃的にも思えるドローイングで有名になったのは、すでに1980年代のことだ。当時、まさにシュルレアリスティックな画風で彼女が格闘していたのは、自身の夢や日常、政治といったことがらだった。それらはぐじゃぐじゃとした線で鉛筆画や木炭画のなかに描き出されている。ドローイングで描かれた想像の世界はバーゼルでの展覧会でも多くの展示場所が割かれているが、絵画にも散発的に見受けられる。尖った足でこちらへ向かってくる、4匹の大きなタランチュラが行進しているような絵が展覧会の第一室に掛けられているが、まさに恐ろしさを感じさせる絵画である。この大蜘蛛はいったい凶事の前触れなのか、それとも美術館の所蔵作品を守る見張り人なのかと観覧者は思うことだろう。 

イケムラは1951年に東京の近くに生まれ、日本で学業を修めた後、1970年代に渡欧。セビリア(スペイン)の美大に学んだ。その後チューリヒへ移り、1980年代中盤にはケルンへ移った。1991年にはベルリン美術大学の教授に招聘された。

心地よいグラウビュンデンの谷

スイス・グラウビュンデン州トゥージスの険しく切り立った谷で1989年から1990年にかけて制作されたのが、シリーズ作品となる「アルプスのインディアン」だ。10点の風景画からなり、なかでも特に傑作の3点をバーゼルの展覧会で見ることができる。この中規模サイズの作品群は山地の風景と人物が多彩な色使いのなかに溶け合い抽象画のようにも見えるが、ドローイングに比べ、驚くような調和と柔和さを見せている。おそらく画家自身もこの山地に身を置くことで心の平安を感じ、風景が自身と自身の絵画へ心地よさをもたらすことを発見したのだろう。

自然風景は彼女にとって欠かすことのできないテーマとなり、なかでも近年ベルリンで制作された三枚セットの大きな作品は、彼女の作品においてとりわけ重要なものとなった。イケムラレイコの風景画に描かれる、人のような人でないような存在は、風景とまさに不可思議な統一感を獲得している。それはイケムラが紡きだす神話の証左であり、その神話は彼女の次の作品へと織り込まれていく。

イケムラの芸術のなかには複雑な統合プロセスを見ることができると、一般的には言うことができるだろう。外と内、人間と動物、そして様々な文化的な伝統が、きわめて独自性の高いかたちで溶け合っている。これこそがスイス国籍を持つこの日本人女性アーティストが追求しつづけることがらなのだ。彼女はヨーロッパで文化的・芸術的解放をもたらす土壌を探し求め、見いだした。しかし本人が言うように、ヨーロッパに同化しようとすることはなかったのだ。

無から何かを生み出す

イケムラの絵画が持つ繊細さと優しさは、見る者に軽くふれ、なでていくような魅惑的な印象を与えると同時に、甘ったるいと思わせるようなところもある。このことを取り上げる前に、ほとんど目立たないあるドローイングについて書いておきたい。「始源」と名付けられたこの一枚は軽いタッチの平面的な木炭画だ。描かれているのは丸いかたちと、そこから絵の端に向かって長く伸びる二つの耳である。我々が見学した際にイケムラレイコが語ったのは、当初は耳を描くつもりは全くなかったのだということだ。それより丸いかたちから初めに外側へ折り返していったのであり、いちばん最初の動きであり創造プロセスの結果であったということだ。ある意味での「無からの創造」である。イケムラは人間の本質や本質的なかたちを追求するアーティストであり、彼女の制作方法は時折神性をも帯びることがあるのだ。 

このようにかたちを追求して獲得していくやり方は、焼成陶器の彫刻作品にも引き継がれている。1990年代に制作されたこれらの作品は、バーゼル銅版画館館長であるアニータ・ハルデマンにより、黄緑色の土台の上にすばらしく展示されている。おもちゃの人形や花瓶くらいの大きさであり、その風変わりなかたちは、一義的に解釈されるのを拒んでいるかのようだ。人間や動物になろうとしている最中の何かであるように思える。そのはかないかたちは、まだ花瓶であることを示す開口部を持ちつつも、すでに人間に似た生き物の世界へと移っていってしまったようにも見え、その顔はそれとなく、しかしきっと全くの偶然ではないだろうが、日本のマンガの登場人物を思わせるものだ。

すべてはまだ萌芽の途上

そのような連想はイケムラレイコの少女を描いた絵画を見ているときにも現れてくる。主に原色を用いた作品群「ガールズ」では、透けて見えるような若い女性がキャンバスの中に息づいている。多くは顔が描かれておらず、歩いていたり寝そべっていたり、ときには跳ねたりもぐったりしていることもある。若い女性を描いたこれらの魅惑的な絵画は、彼女らの生がまだ萌芽の途上にあると語りかけてくる。すべては約束されている。そして彼女らは永遠に繊細な存在でありつづけるのかもしれない。世界から転落するのか、それとも宇宙的な哀しみにうち沈んでいるのか。 

バーゼル美術館にて、展覧会開催は5月11日から9月1日まで 

掲載:Tagesanzeiger.ch、2019年5月9日

https://www.tagesanzeiger.ch/kultur/kunst/kosmische-umarmung/story/23863533

 

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「Kamikaze und Rettung(カミカゼと救い) 」

日本・スイス人芸術家イケムラレイコは絵画と彫刻のなかで人間と自然の調和を追求している。バーゼル美術館での大規模な展覧会は彼女にとっても喜ばしいものとなった。

ゲルハルト・マック/2019年5月17日

(参考作品)戦争の悪夢を描く:イケムラレイコの絵画「カミカゼ」、1980年

始まりは海だった。そこからすべてが起こったかのようだ。まるで創世記を見るように、魂が水面の上空に浮かんでいる。イケムラレイコの作品にはそこに船へと突撃していく飛行機が描かれている。水平線は左へと傾いて描かれており、攻撃のダイナミックさを強めている。

カミカゼと呼ばれた第二次世界大戦で日本軍が行った自決作戦は、日本と結びついたステレオタイプである。同名のタイトルを持つこの絵はバーゼル美術館で開催中の展覧会入り口に掛けられている。本展は作品約120点を擁し、日本・スイス人画家イケムラレイコの芸術が展望できるものとなっている。

海はイケムラレイコの人生において初期から重要な役割を担っている。彼女は1951年に海沿いの街・津に生まれた。そこでは戦争の恐怖が戦後も長引いて残っており、後に画家となる彼女もそれを身をもって感じていた。もうひとつ経験をもって知ることになるのが海の様相だった。どこまでも続く霞、夜が来ると闇に沈む水平線、風と波に反射してきらきらとする光。

海は意味なく死にゆくためだけの場所ではなく、憧れの場所であり、何かが始まること・境界を超えていくことを約束してくれる場所でもあった。空と地が霧に包まれたとき、すべてが結びつく場が生まれる。そこではすべての総体、対立するものどうしが結びつき、目に見える世界は何かへと開いてゆく。日常の実体的なものへと作用し、非実体的なままでいる何か…そう表現したのがフリードリヒ・ニーチェの詩「Nach neuen Meeren(新しい海へ)」であり、イケムラの展覧会のタイトルにもなっている。

イケムラレイコのドローイング、絵画、粘土やブロンズによる彫刻が目指すものは二つある。われわれ人間が害してきた人間自身と自然にかたちをあたえ表現すること。そしてそれらが和解を得ることへの希望と地上の楽園への祈念を抱き続けること。 

この振り幅のなかを彼女の作品は動き続けている。攻撃的な蜘蛛と超然としたアマゾンの女、人間・動物・植物からなる混成生物。予感に満ちた汚れなき少女が宙にたゆたい、宇宙的な情景は一種の自然崇拝のように禅の精神を賛美する。見当違いであったとしても、この画家は現代が持つ傷から手を引っこめることはない。静かに、冷酷に、魅惑的に美しく。

イケムラレイコ「Nach neuen Meeren(新しい海へ)」、バーゼル美術館にて9月1日まで。カタログはプレステル社刊。

掲載:「NZZ am Sonntag」紙、2019年5月17日

https://nzzas.nzz.ch/kultur/kamikaze-und-rettung-leiko-ikemura-kunstmuseum-basel-ld.1482313?reduced=true